掃き溜め

快楽主義の依存体質が破滅していく道程

劇場版 少女 歌劇 レヴュースタァライトは何を伝えたかったのか

クズ要素ばかり扱ってきたこのブログだが、表題の通りレヴュースタァライトの劇場版を観てきたので考えたことをアウトプットしていきたいと思う。

 この映画、上映から一か月あまり観てなかったのだろうかというくらい面白かった。

シュールで、でもクールな映像、レヴューはどれもアツくて差し迫ってくる。オマージュにクスっとする部分もあれば、劇場で見ることによって観客をしびれさせるような演出もあり、話の筋書きが難解だと感じたとしても映像美やレヴューだけでもこの映画は楽しむに値するものであると思う。

 少女同士の関係性だとか小ネタだとかはきっともっと詳しい人がいると思うので、この記事では物語の構造やそこから伝わることについて考えていきたい。

(映画のネタバレを大いに含むので、未視聴ならばブラウザバックしてほしい。そもそもこのコンテンツに触れたことがないのであれば、ぜひともアニメ版から見てほしい。また、人の考えも特に取り入れていないヒトリヨガリな考察なので悪しからず)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スタァライトの構造

 この物語に盛り込まれた最大の仕掛けは何といってもこの作品そのものが「愛城華恋と神楽ひかりの出会いと再会の物語」という「舞台」だったというオチにある。舞台少女たちはそれに気づき、次の舞台へ進むため「レヴュースタァライト」という舞台に幕を下ろそうというのが劇場版の流れである。

 (この構造自体はアニメ版にも示唆があり、第七話の「再演」がどうしてスタァライトという演劇ではなく、1年生の学校生活であったのかを考えてみてほしい。)

 劇中に出てくるトマトによって「舞台少女の生活」から「今現在も舞台を演じている役者」へと認知が転換し物語が展開していく。そういう意味ではトマトが連想させるものは血というよりは映画「マトリックス」の赤い薬(※)である。

※「マトリックス」の主人公は差し出された赤い薬を飲んだことによって今の生活が機械に見せられている夢だということに気づいた。

 

〇この話の疑問点

 しかし、この筋書きには一つ問題点がある。それはアニメ内での舞台少女の体験は脚本通りに演じられていただけなのではないか。それはアニメの内容を否定してはいないかという点である。 

 この顛末にするということはアニメの中で繰り広げられた葛藤も諍いも決断もすべて脚本通りの予定調和ですとネタバラシすることであり、明らかに人物への感情移入を損なうものであるし、意図せず行われていないのであれば実に興ざめな仕掛けであるともいえる。

 

〇この展開に対する考察

 この展開を見て連想されたのは「ジョジョの奇妙な冒険」の第5部のエピローグに挿入される「眠れる奴隷」の話である。

 簡単にあらすじを言うと、第5部の物語が始まる前、「近い将来、死にゆく人間を安楽死させる」スタンドを持った男と出会ったブチャラティは自分が死の運命にあることを知るが、彼は安楽死を選ばなかったという話である。(そして、劇中で彼は予言通りに命を落とす)

 この物語は、今までの道程がすべて運命であったという話を最後に繰り広げ、「じゃあ今までの戦いはなんだったんだよ?」と考えさせるものである。

 

 話を戻そう。スタァライトについて話のすべてが「レヴュースタァライト」という舞台であるとしたとき、この物語は「運命論」というテーマに収斂されはしないだろうか。舞台少女たちはその自覚もなしに舞台に立たされて、演じている。物語はすべて脚本通りに進められて、その意志とは関係ない。自分が考え行動したと思っていたことでさえ予定調和である。

 これは何も舞台少女だけに言えることではなく、私たちもまた「無自覚に運命という舞台を演じる役者」である。私たちは、舞台少女たちは運命という題目を演じているだけの役者に過ぎないのだろうか。

 

 この物語の結論は「役者は舞台が終われば次の役を演じられる」というものであり、それは運命論という無気力で暗い部屋に一筋の光を照らすものである。実際に劇場版では物語に幕を下ろしたことで、最初に言っていた進路と異なる選択をした舞台少女が一部描かれている。(それから新しい役を見つけようとする華恋の姿も)

 この結末はただ「人生は運命という脚本に支配されているものである」というだけではなく、自分の意志で「新たな運命を選び取ることもできる」としているのである。このことから、映画に込められたメッセージを私は「人生は運命という脚本によって決められ、無自覚に演じられるものだけれども、自分が運命の役者だということに気づいたならば、どの脚本を演じるかは自分次第なのである。」というものであると読み取った。

 運命は一本道ではなく、枝分かれしていくものである。一つの運命が終わったとしても広く視野を持てば新たな運命を切り開けるのだという世界観の表現のために劇場版はこのような内容になったのではないだろうか。

 このように考えるとこの運命論はとても前向きで明るいキラメキに満ちたものであるように思えた。

 

いろいろ連ねてきたがよくわからない部分もあったし、そもそも映像、音響、演技と一度じゃ堪能しきれない部分もたくさんあるのでもう一度見たいなと思わされた。そもそも何日も頭を悩ませる作品には長らく出会えなかった。それだけで脱帽モノである。