掃き溜め

快楽主義の依存体質が破滅していく道程

えぐにっき(2/5)

酔った勢いで書いた駄文がWordに入ってた。そのままにしておくのももったいないので、笑いのために供養することにする。

誤解を招くかもしれないけど、他意はない。本当にない。

 

ーーーーーー以下本文ーーーーーーーーー

 

「人を愛する」というのはいったいどんな感覚だっただろうか。

 

さいころには好きな女の子がいた気がするし、「魅力的な人」そう感じる人に出会うことだってある。性欲がないというわけではない。体の関係だけならば、男とだって女とだって経験している。しかし、好きな人と交際して、その人だけを選んで、一生を添い遂げたいというのはどんな感情なのだろう。なまじっかな人では煩わしく感じてしまうだろう。もし、そこまで好き合う関係があったしたら、それはかえって不吉だ。それは現実感がなくて、なんだか陳腐で噓っぽくすら感じるものだから。好きという言葉は白い服に泥が跳ねるみたいに、あなたを台無しにしてしまう気がする。私といないあなたこそが美しかったのに……。

一言で表すならば「推せるけど愛せない」そんな風にも言える。好きだと思ったところでそれが一緒にいたい、付き合いたいなどいう欲求とは結び付かないのである。なぜなら私は好きなあなたの好きという言葉すら信じることができない小さな人間だから。

確かに私は齢26にして未だ社会に出られていない社会不適合者であるし、交際してみた経験もない。性的嗜好だって他人とは違う気がする。結婚なんて考える段階に至っていないのかもしれない。

生活が安定して、好きな人ができればそのうち分かると思い、胸の内で埃を被っていたこんな悩みは、周囲のライフ・ステージが進むにつれ、ふと顔を覗かせるようになった。友人の結婚式に呼ばれた時のことだ。華やかな衣装に身を包んだ新郎新婦は幸せそうで、そんな彼らを皆は祝福し、うらやんでいるのを見た。私も彼らの幸福が続くことを願っているし、その思いに偽りはない。

けれど、それを自分に置き換えてみると、どうしてこれが幸せなのかわからない。皆がうらやむ理由がわからない。彼が幸せならば彼にとって正しいことだとは思う。でも席で2人を祝福する私は、例えば恋人に不貞を働かれた人が怒り、傷つき、裏切られたと感じるのか、どうしても理解できずに悩んでいるのである。それは、恋愛経験がなくともわかるような普遍のものであるようだが……。

人は誰と接するかに応じて幾つもの人格を合わせ持っている。私は私といるあなたしか知りえないのに、どうして私のいないところであなたがどんな顔をしているかに憂うる必要があるのだろう。それとも、それすら知りたいと思うことが愛なのだろうか?

愛する人とは、その人の喜怒哀楽を自分のことのように感じられるような関係を持った人。そう私は認識している。ではあなたの幸せが私の幸せならば、私のそばを離れて幸せそうにしているあなたを見てどうして不幸せになろうか。どうしていろんな人を好きになって、一方的な愛を振りまいてはいけないのか。これを不幸というのであれば、その愛の言葉は、鏡の中の自分に掛けているのと変わらなくないか?だって「あなたといる私」というお気に入りの「私」が死んだことに嘆くのだから。ライオンの子殺しのような遺伝子淘汰のメカニズム、それは博愛というイデアすら許してくれないのか。いずれにせよ、種の保存という生き物の性を捨て、同性愛にかまけているうちは分からないか。

 世間一般でいうところの愛と私の認識しているそれの間には、どうしても深い溝がある。この溝を見て見ぬふりして生きていても、時々ぽっかり口を開けて、私を深みに嵌めようとする。ああ「俺も結婚したい」といえる友達が羨ましい。私はついぞ愛を知ることなく死んでいくのだろう。

 

2月5日

 

補足1:居心地の良い、より良い生活のための結婚という視点もあるらしい。

補足2:現状、ぼくは魅力的な人はそこそこいるものの、恋をするほどの活力を有さない状態にある。ずっと昔からそうな気がする。